大判例

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東京高等裁判所 昭和36年(ネ)1124号 判決

控訴人 大沢健二

被控訴人 国

訴訟代理人 河津圭一 外一名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対して金四二万四、六八八円及びこれに対する昭和三二年七月三日から支払ずみまで年五分の金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張、証拠の提出、援用、認否は、当審において次のとおりつけ加えたほかは原判決事実欄に記載するとおりであるから、これを引用する。

(控訴人の主張する事実)

一、控訴人が当審で主張する事実は後記「控訴人の主張」に記載してあるとおりである。

(被控訴人の主張する事実)

一、被控訴人が当審で主張する事実は、後記「被控訴人の主張」に記載してあるとおりである。

理由

一、当裁判所の判断は、以下二に記載するところをつけ加えるほか、原判決の理由に記載するところと同一であるからこれを引用する。

(なお、原判決は、東京地方検察庁八王子支部検察官藤直道のみでなく、その上級機関も同様故意過失がなかつた旨を判示しており、結局右機関によつてなされる国の行為(これを離れて国の行為はありえない)の故意・過失がないことを判示しているものというべきである。)

二、最高裁判所大法廷が昭和二八年七月二二日政令第三二五号占領目的阻害行為処罰令違反被告事件につき免訴の判決を言渡した後も、検察官が控訴人に対する公訴を維持した点についてなお検討する。

1  本来国家賠償法第一条に「公務員がその職務を行うについて故意又は過失により違法に他に損害を加えたとき」の過失とは、公務員がその行為が違法であることを知りえたのに不注意によりこれを知らなかつたことをいうのであり法令の解釈についてもこれと同様に解すべきであることはいうまでもない。

2  そこで、前記大法廷の判決があつたとき検察官において本件の指令に関して検察官の前記見解が違法であることを知りえたかどうかについて考える。

前掲最高裁判所大法廷がいわゆる「アカハタ及びその後継紙」の発行停止に関する指令についての政令第三二五号について後記のような多数意見により、刑の廃止があつたものであるとの解釈を示し(これに対しては控訴人主張のような四裁判官の反対意見がある)、これを強く支持する控訴人ら列挙の学者の見解が公にされ、右指令に関して判例、学説の解釈はその結論においてほとんど一致しているということができるが、その理由においてまで一致しているわけではなく、右大法廷自体が多数意見の内部においても分かれ(学者の意見も同様に分かれ)ているところである。すなわち、多数意見一〇名の裁判官のうち六名(真野、小谷、島、藤田、入江各裁判官)が平和条約発効後においては、「連合国最高指令官の指令」違反を処罰する政令第三二五号は「連合国最高司令官」が解消し、「連合国最高司令官の指令」が発生存在する余地がなく、「連合国最高司令官の指令違反行為」が発生する余地がないのも、当然自明の理であるとし、右指令違反を処罰する政令第三二五号は、平和条約発効後においては、その効力を保持する余地がなく、当然失効したものとして、右失効後昭和二七年五月七日施行された前記法律第一三七号が右失効前になされた行為に対しても、罰則の適用につき、従前の例によると定めたものとすれば、すでにひとたび失効して効力のなくなつた政令第三二五号の罰則をさらに復活させて事後において、過去の行為に遡及適用せしめようとするいわゆる事後立法ということになり、憲法第三九条の趣旨に反し無効であるといわねばならないというのに対し、他の四名(井上、栗山、河村、小林の各裁判官)の多数意見は、平和条約発効後は右政令第三二五号が当然全面的にわが国法として存続する内容も効力も、もちえないということはできず、したがつて、指令の内容において合憲なものは平和条約発効後においても、その指令のかぎりにおいて、わが国が、右政令第三二五号をわが国法として存続させることは自由であり、昭和二七年法律第八一号は、昭和二〇年勅令第五四一号に基く命令は別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合において平和条約の効力発生の日から一八〇日間に限り法律として効力を有する旨を規定したのであるからこの中に含まれる政令第三二五号もその内容とする指令が合憲なるかぎり右法律により有効なわが国法として存続することになつたとしても、前記指令は言論の自由を奪うもので、憲法第二一条に違反するものであり、右政令第三二五号もまた右指令に対する違反を罰するかぎりにおいて、憲法に違反するといわねばならないとし、昭和二七年法律第八一号によつて平和条約発効と同時にその効力を存続せしめることができないものと断じなければならないとするものである。

前者の意見は、そのまま本件で問題となつている指令にもあてはまり、前記指令と同一の結論に帰することは明瞭であるといわねばならないが、後者の意見によれば、右政令第三二五号は、その指令の内容によつて、その効力を異にすることになり、本件で問題となつている指令に関しては、それが合憲か違憲かが審査されてはじめてその効力がきまるということになる。(昭和二〇年九月一〇日付「言論及び新聞の自由に関する連合国最高司令官の覚書」違反事件について、最高裁判所が昭和二八年一二月一六日前の判決と同様の理由により免訴の判決を下したとしても、このことは変らない。)

かように、理由において意見を大きく異にする以上事前に本件指令の内容が憲法第二一条に反するとした一部学説がみられたにしても、又前記前面失効説を支持する多数学説がみられたとしても判例に関する限り結局本件の指令違反についての処罰規定である政令第三二五号が失効したとの解釈が明らかになつたということはできないと考えられ、検察官としては、結局それまでは本件指令に対する最高裁判所の判決が明白に予見でき、自己の法令解釈が、拘束力ある判例の解釈に違反する違法なものであることを認識しえたはずであるということはできない。

そうであるから、検察官が、昭和三〇年四月二七日最高裁判所によつて、本件の指令に関し、前の大法廷とほぼ同じ意見の構成によつて刑の廃止があつた場合に当るとの見解が示されるまで、控訴人に対する公訴を維持したことをもつて、過失があつたということはできない。

三、以上のとおりであるから、控訴人の請求はそのほかの点について判断するまでもなく失当であり、これを棄却した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないからこれを棄却すべきであり、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 牧野威夫 菊池庚子三 渡辺卓哉)

控訴人の主張

一、国家賠償法第一条第一項の故意過失の意味

国家賠償法第一条第一項の故意過失とは、当該公務員の個人的な故意過失の有無を問題としているのではなく、公務員を通じて行われた国の行為として故意過失の有無と解することは文理上可能であり、そう解してはじめて憲法第一七条の精神を国家賠償法を含めて不法行為制度についての近来の社会的要求に合致することができる。判例も下級裁判所ではあるが、東京地方裁判所昭和二七年一二月二二日の判決は「裁判所、拘置所のいずれに責任があるかは暫くおき、ともあれこの拘留が国家機関たる何人かの過失によつて理由なく半ヶ月間延長されたことは疑いえない」としてこの様な考え方を示している。

二、検察官の注意義務

検察官の職務は、常に国民の自由、人権を侵害するものであるから、その職務の遂行に当つては高度の注意義務を要求されるのであつて、このことは一般に不法行為について認められた解釈である。しかも検察官は広義の司法作用を担当するものであるから法の解釈適用について、かかる高度の注意義務を要求されるのであつて、「全く根拠のないとすることはできない」であり、「必ずしも不当とはいえない」という程度の根拠によつて公訴を提起し、維持することは検察官として過失があるといわざるをえない。過失を右のように解しても公務員は故意又は重大な過失があつた場合のみ国から求償をうけるにすぎないのであるから、公権力の行使につき躊躇停廃をきたすおそれはなく、かえつて公権力の行使が慎重になされ、「公僕観念の現実化という憲法の規定する公務員の心がまえの徹底に貢献する」(衆議員の可決理由)こととなり、憲法の保障する基本的人権の擁護に役立つのである。

三、本件における具体的過失

1(一) 本件起訴当時には昭和二七年法律第八一号が公訴提起後も昭和二七年法律第三二五号が各存在したことを理由として本件のような政令第三二五号違反事件の公訴を維持できないとする後の最高裁判所の判例に示されたような見解は当時から裁判手続の内外において盛んに行われていたのであるから、検察官においても充分に知悉していたのであつて、過失なしということができない。

(二)(1)  平和条約発行後における政令第三二五号の効力についてはすでに占領時代において無効論が唱えられていた。(田中二郎「実定法秩序論」、同「ポツダム緊急勅令をめぐる違憲論」、矢崎憲正、奥田英一「平和条約発効後におけるポツダム命令違反と刑事裁判」鮫島真男「ポツダム諸法令の改廃又は存続に関する措置について」参照)

(2)  平和条約発効後の下級審判例には昭和二七年法律第八一号並びに同年法律第一三七号の存在にもかかわらず、政令第三二五号違反事件を維持できないとするものが続出していた。

(イ) 政令第三二五号は占領終了により本質的に失効するとする全面失効説(横浜地裁昭和二七年七月一二日判決、大阪地裁堺支部同年七月一七日判決、釧路地裁同年七月九日判決、京都地裁同年七月一四日判決、東京地裁同年一〇月七日判決)

(ロ) 政令第三二五号は広汎な立法権を行政機関に白紙委任するもので憲法三一条に違反し全面的に失効するとしたもの(札幌高裁昭和二七年一〇月一六日判決)

(ハ) 同政令が、憲法に違反する部分に限り失効するとの限定失効説(札幌高裁函館支部昭和二七年七月一二日判決、横浜地裁同年七月一二日判決、東京地裁八王子支部同年八月二九目判決)

(3)  有罪説を示した東京高裁昭和二七年七月一七日判決は政令第三二五号は限時法であつて憲法の内部においてすでに有効なものであるとして、その根拠を公共の福祉にもとめ、昭和二七年法律第一三七号第三条において「この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用についてはなお従前の例による」と規定しているのは右の趣旨を単に宣言的に規定しているにすぎないとしている。

このような考え方に対しては、すでに占領時代から「公共の福祉」の名のもとに強いて合憲であるとする考え方は憲法の解釈をルーズにし、それが独立後にもそのまま引き継がれると憲法の一角が崩れる危険のあることが警告されていた(「ポツダム命令よどこへ行く」、田中二郎「憲法尊重擁護と憲法の改正」)し、その後佐藤功教授によつても「占領下において違憲問題を相当困難を押して合憲なりと判断しようとした考え方の惰性がたとえば特に「公共の福祉」の解釈論を根拠とするというような形において、強く存続する危険があるのではないかと思われる」と重ねて警告されていたところであつた。更に判決後は平野竜一教授によつて「これでは将来憲法の規定はほとんど無意味になつてしまう」とまで批判されたこの「公共の福祉」の点については、その後本件第一審免訴判決の直前に検察官藤直道立会のもとになされた東京地方裁判所八王子支部昭和二七年八月二九日判決によれば、「公共の福祉の名のもとに、言論活動を処罰の対象とできるのは社会公共の安寧や福祉に対し重大かつ緊迫した明らかな危険がある場合に限られるとし、「言論出版の自由を擁護すべき最も困難な場合は国民の多数によつて冷眼視される少数異端の思想の持主に対する自由の擁護にある」として検察官の「連合国最高司令官の指令に従いその日本占領政策に協力することは民主主義日本の再建を念願する日本国民の福祉に叶うものであつて、これら良識ある大多数の日本国民の意図を無視し連合国に対する破壊的批判を論議するが如きは公共の福祉に反するものであり、憲法の保障する言論の自由の限界を明らかに逸脱する」旨の主張を退け、免訴の判決を言渡しており、東京地裁昭和二七年一〇月七日判決もほぼ同様の見解を示している。

(4)  政令第三二五号が限時法であるとの考へ方に対しては平野教授は「限時法において形式上廃止されているように見えても、過去の行為に関する限りなお有効だと見るからこそ処罰するのである。有効であるためには、やはり憲法に適合していなければならない。法律自身が限時法であるということは勿論一三七号で従前の例によるという明文がおかれたとしても、直ちに処罰を肯定する理由にはならない」また「有効期間末期に法が行われなくなる虞があるというだけでは限時法として廃止後も処罰する根拠にはなりえない。一歩譲つて、かりにこれを認めたとしても、それは性質を臨時的なものに限るのであつて、憲法のしかも基本的人権に関する部分についてはこの点を考慮すべきではない」とされ、横浜地裁昭和二七年六月二日判決、福岡地裁同年六月二四日判決、東京地裁八王子支部同年八月二九日判決などもこの理論を明らかにしている。

(三) 前掲最高裁判所昭和二八年七月二二日、同年一二月一六日の再度の判決における多数説のうち第一説すなわち政令第三二五号の効力を全面的に否定する見解は、指令の内容いかんにかかわりなく本件訟訴が維持できないことは明白である。

同じ免訴の結論に達しながらも、第二の説は、七月二二日の判決においては「しかるに前記指令はアカハタ及び同類紙又は後継紙についてこれを掲載されようとする記事が国の秩序をみだり、又は社会の福祉を害するような理由の有るなしを問わず、予め全面的にその発行を禁止するものであり、通常の検閲制度にもまさつて言論の自由を奪うものであるから、憲法第二一条に違反するものであることは明らかであつて右政令第三二五号もまたこの指令に対する違反を罰するかぎりにおいて憲法に違反するといわなければならない。」といつており、この見解による限り、占領軍に対する破壊的批判を禁ずる指令に関する政令第三二五号を違憲でないとする可能性がないことは明らかなはずである。はたして、右最高裁判所判決直後学界、法曹会こぞつて免訴説の立場に替意を表し、殊に小野清一郎、沼田稲次郎、木村亀二、平場安治、海野普吉、中村哲の諸氏は全面的な失効説である第一説を支持し、木村亀二「政令第三二五条違反事件に関する違憲判決」、「政令第三二五号違反事件に関する最高裁判決について」「政令第三二五号違反事件に関する最高裁判所の違憲判決」、真野毅「政令第三二五号事件について」、宮内裕「占領目的阻害行為処罰令(政令第三二五号)の効力」、においてそれぞれ全面的失効説の立場から反対説を鋭く論求しているが、全面的失効説の立場からは本件公訴の維持が不可能であるのは自明のことである。

また限時法の主張に対しては、右判決並びにその後の学説によつて、完全に否定されている。しかも続いて、同年一二月一六日の判決が本件指令と同じ昭和二〇年九月一〇日の「言論及び新聞の自由」に関する覚書第三項につき、公式に発表せられざる連合国軍の動静を論犠することを禁止したことを憲法第二一条に違反するとして、同政令違反事件を免訴したのであるから、ここに及んで本件免訴の大勢は必至となつたというべきであらう。

「連合国に対する破壊的批判の禁止に関する指令は、昭和二五年朝鮮戦争勃発後の連合国の占領目的(実質的にはアメリカ合衆国のわが国に対する占領目的であつたことは公知の事実である)という占領軍の法益のみを目的とするもので、「わが国の秩序」、「わが国の社会の福祉」とかかわりのないものであることは指令の明文からも明らかであつて、この点につき大阪高裁昭和二八年一〇月六日判決も「昭和二〇年九月一〇日付言論及び新聞の自由に関する覚書の内容は、連合国最高司令官が偏にその占領目的達成の手段として発した指令にあたり、わが国の公共の安寧と福祉を害する理由の有無を問うことなく、全面的に同項所定の論議を禁止したものとみるべきであるから、これまた憲法第二一条に違反するものといわねばならない。従つて前示井上外三名の裁判官の意見(第二説)に依拠するにしても、政令第三二五号は前項名指令に関するかぎり、平和条約発効と共に失効しそれ以後は右指令の趣旨違反を理由として、処断することができない。」と判示し、長谷川正安教授も「本件のアカハタ停止指令等、とくに言論及び新聞の自由に関する覚書中、連合国軍隊の未発表動静論議と同じく連合国に対する破壊的批判禁止の事実(ともに第三項)ともなれば、占領目的のみに有害な行為の処罰であつて日本の『公共の福祉』でないことは指令の明文からも明らかである。」とされている。したがつて、本件控訴取下の機縁となつた昭和三〇年四月二七日の判決は当然の成行だつたのであり、各裁判官の意見も前二判決と全く変らない。

本件における公訴事実をみても、単に占領軍が朝鮮戦争に介入したことや、当時の政府の失政を批判したのにすぎないのであつて、その行為が前記昭和二七年七月二二日最高裁判決第二説の基準に照らし、「国の秩序を紊り、又は社会の福祉を害する」ものとして、「全面的に」「禁止」されねばならないものであつたとはとうてい考えられない。

2 このように、法の解釈の相違によつて公訴が結局裁判所で支持されないかも知れないという可能性が検察官に予測されている場合に、検察官としての法解釈に対する信念、また時として疑問を最高裁判所の判断を仰ぐという必要などによつて、公訴を敢えて提起し維持して最終的に裁判所の支持がえられなくなつたとしても現行訴訟制度上はやむをえないこともあるが、被告人だけがこのような制度のやむをえない結果である損害を受忍しなければならないものではなく、国民全体がその損害を分担し合うべきである。

被控訴人の主張

控訴人は政令第三二五号違反事件に関する裁判例及び学説(殊に控訴人の見解に副うもの)を引用して、検察官の本件公訴維持に過失がある旨主張されている。しかし、裁判例、学説には対立する両説があり、要はその見解の合理性如何が問題であつて、検察官の見解に反する裁判例、学説の多寡によりその過失の有無を断じ得べきものではない。すなわち、本件の中心的問題点は、検察官が本件公訴(控訴を含む)を維持したについてその公訴維持のもととした見解が合理的であつたか否かにありその合理性が不充分な場合は格別であるが、それが合理的なものと認められる場合には、控訴人挙示の裁判例、学説の存在は検察官の公訴維持の正当性の妨とはなり得ないであろう。しかるところ、本件検察官の公訴維持のもととなつた見解が合理的なものであることは原判決判示のとおりであるが、左に少しくこれを補足する。

一、本件公訴事実たる控訴人の行為は政令第三二五号に違反するものであつて、対日平和条約発効前すなわち占領中になされたものである。政令第三二五号は連合国最高司令官の権力を背景とし、憲法外において効力を認められていたものではあるが、なおわが国の国内法たること他の一般の法令と同様であつて、それはわが国の裁判所により適用される法規であつた。従つて、本件控訴人の行為は当時において可罰性を有し、その行為とともにこれにもとずいて実体的意味における国家刑罰権が発生したものである。

二、しかるところ、政令第三二五号は、昭和二七年法律第八一号により同法施行の日から一八〇日間に限り法律としての効力を有するものと規定され、次いで同年法律第一三七号により廃止された。この廃止は、それに伴つて刑第六条適用の問題を生ずるが、同条が適用されるのは元来行為についての刑法的価値判断に変更が生じて法規が改廃された場合であつて、本件のように事実上の状態の変更があつて、今後その種行為につき規制の理由がなくなつたような場合はこれに該当しない。そこで、右法律第一三七号はこの点につき「この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による」と規定し、本件公訴事実のごとき占領中の政令第三二五号違反の事実についてはなおその罰則を適用処断することを明定した。もつとも、旧法の下において行われた犯罪が新法下で処罰さるれのは、もともと行為時法によるものであつて、旧法が現になお有効であるからではない。政令第三二五号が本件行為当時国内法として有効であつたことは言うまでもないから、当時の違反行為についてなおこれを処罰する旨を定めた右法律は、結局かように既に生じた刑罰権についてこれを放棄しない趣旨を明らかにした、ものであつて、それは憲法違反等の理由によつて既に失効した政令を有効なものとして復活させようとしたものではない。

三、控訴人は、政令第三二五号の憲法違反の点を強調されているが、憲法がわが国の最高法規であるといつても、憲法も実定法である以上それは時間的制約に服するものであつて、それが完全に妥当するに至る以前の行為についてその当時に存した他の実定法に対して、当然これを批判し否認するものではなく、また占領中連合国最高可令官の指令に協力し、それに副つて国内の秩序を保つことは公共の福祉に副うことであつて、指令違反の言動が公共の福祉に合致せず憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱するとの考も理由が無いものではない。

四、しかして、以上のような見解は、原告挙示の最高裁判所の各判決の少数意見や東京高等裁判所の昭和二七年七月一五日の判決(高裁刑集五巻八号一三四二頁)、同裁判所同年同月一七日の判決(裁判所時報一一二号一一頁)、札幌高等裁判所の同年八月一五日の判決(高裁刑集五巻八号一三八二頁)その他の裁判例にも現に認められているととろである(検察官の見解と軌を一にする最高裁判決の少数意見の論拠の詳細については、ジュリスト四九号二頁の田中耕太郎氏「時際刑法理論から見た政令第三二五号事件」参照)。

五、従つて、本件検察官が占領中の違反事実について前記(一、二、三)のような見解に立つてなお刑罰権を行使し得るものと考えたのは合理的であり、よつて本件公訴を維持したこともこれを相当と言うべきであつて、昭和三〇年四月二七日の最高裁判所の判決に先立ち、原告挙示の昭和二八年一二月一六日の判決が「言論及び新聞の自由に関する連合国最高司令官の覚書」違反事件中「公式に発表せられざる連合国軍隊の動静を論議した事案について免訴を正当とした事実があり、その形勢から推せば「連合国に対する破壊的批判」の事案についても免訴の判決の言渡される可能性が大きかつたとしても、この両事案は事項に異にし、かつ、最高裁判所の判決にも裁判官の間にも対立した意見が見られた以上、法規違反の行為につき国家の刑罰権行使をするため、裁判所に判断を求めなければならぬ職責にある検察官として、なお右述の見解にもとずいて同一の事項についての最高裁判所の判決までの間公訴を維持したことには理由があり、これをもつて過失ある違法な行為とすることはできないであろう。

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